だから打ちのめされて良かった

  • 2017.06.26 Monday
  • 04:42

実は1ヶ月前、自分の間違いというか、浅はかさを知って、心が打ちのめされました。

仏教を学び、長年苦しんできた人生が2年前頃に180度変わり、
生きる喜びを知って、全てが無駄なくありがたいと思った。

そしてあまりにも物事が思い通りにいくので、
それがつい、自分の力が凄いのだと思い、驕りや思い上がりが芽生えた。

しかし、自分の力が凄いのではない。
凄いのは、自分を支えてくれている、自分以外だ。

私の力はたかだか、それを少し感知できるようになったことだけ。

なのに思い上がって私は満足して、自分の成長を止めてしまっていた。

要するに、自分に増上慢があったんだ。

 

それを知って打ちのめされた。もちろん知れて良かったとも思ったけれど、

色々含めてとにかく、涙が止まらなくなるほどショックだった。


とはいえ、悩みも、苦しみも、必要あっての意味のあること。
だから安心して悩めばいいことも学んでいる。

目を背けず、安心して存分に味わえばいい。
カメレオンのように、これが今ふさわしく、ちょうどいい色だと。

それが必ずのちに「あれがあって良かった」に展開して転換していくと。

 

 

仏教は「活かす」教え。

私は、打ちのめされたことで沈み、元気がなくなり、
逆に「活力あふれる元気いっぱいの私」だったら出来なかったことが、できた。

人間、本当につらいときは、周りの笑顔や元気が憎らしく感じることもある。

元気に励まさないで。
一緒に泣いてほしい。
そんな場合もある。

自分が元気じゃないからこそ、起こせた行動がある。
だから今は、今がちょうどいい。



うっかり長くなっていた鼻をポッキリ折ってもらえて、やっぱり良かったです。

もう無理だ、こんな難しい深い教えにはもうついていけないって思ったけど、

もう菩薩なんか目指さなくていい、私は六道輪廻する人間でいいって思ったけど、

やっぱり戻ってくるんですね。笑



謙虚にいるためには、感謝を忘れてはならない。

そして傲慢にならないためには、向上心を持ち続けること。

私はこの1ヶ月で、そう学ばせていただきました。

 

 

どこに幸せがあるか

  • 2017.05.21 Sunday
  • 07:13

幸せというのは、外へ探し求めるものではなく、自分の中にある。

自分がすでに持っているものの素晴らしさに気付くこと。

幸せはそこにある。



念願の従姉妹に会えた。
新幹線と高速バスを使って、初めてのひとり旅。
最高の1日だった。

そして改めて、幸せとは、知ること、気付くことだと心から思った。

従姉妹はまだ悩むかもしれないけれど、
私が見たのは、想像していたより遥かに、ステキな家族でした。

全然、大丈夫!

親。

  • 2017.05.19 Friday
  • 10:15

我が子より自分の世間体を守る父だと知ったら呆れたけど、


父が育った環境を思うと、そうなるのも無理はないと哀れに思えた。



我が子より自分を心配する母だと知ったら憎みたくなったが、

このひとは、自分が1番可愛いんだと思うと、少し許せた。


 

 

私は、それまで近すぎてちゃんと見えていなかった、親の1面を知った。

そして冷静に理解できた。

決して、恨む心が全く無いわけではない。
だけど、

もうちゃんと恨んだから、

これからは恨む方へエネルギーを向けるのではなく、
自分が我が子に何をできるのかを考える。

負の連鎖を私が断ち切る。

 

 

親にとって都合が良ければ可愛がり、

親にとって都合が悪ければ否定する、


そんな条件付きの愛情ではなく、

 

本当の無条件の愛情を伝え続けよう。

 

それがあれば、人間は成長できると私は信じる。

 

 

 

 

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聞くと聴く

  • 2017.05.17 Wednesday
  • 09:42

 

「お前は相手の意見を、ただ聞いてるだけだ。

ただ喋らせて、ただ聞いて、相手の意見を聴くフリをしながら、

最終的に自分の意見を通そうとしているだけだ。」

 

 

 

「それは、相手の意見を受けとめていないということ?」

 

 

「そうだよ」

 

 

 

ずどーん。

 

私、どんだけまだまだなんだよ…。

 

徹底的に受けとめることを目標にしているのに。

 

 

 

 

昨夜、次男と私が言い合いになりまして、私がムキになってしまい、

あとで冷静になってから「嫌な母親だなぁ」と反省したら、

キッパリと「そうだね」と言った旦那さまが、教えてくれました。

 

人の心を聴いて受けとめる、気持ちを汲む、苦しみを吸い取ってあげる、

そんなひとを目指していながら、

今の私はまだまだ、聴いてるフリで、ただ聞いてるだけ、か。

 

痛かったです。

図星なんだと思います。

涙出ました。

 

そして、

「そんなことない!」

って言わなかったのは、成長だと思いました。

 

相手へ反抗してばかりで、自分と向き合おうとしなかった以前の私からすれば、

確実に成長しているんだと、思いました。

 

目指しているものが遠くて、

今の自分のまだまださを思い知って、

怖じ気づいたり迷いが出たりします。

 

でも、そういう時って、むしろ一段上がる時だと聞いた事があります。

 

順調に快適にいるような時って、実は停滞期というか、休息期であって、

問題が起きたり、苦い思いをする時こそが、新しい階段を上る時だと。

 

「聴いてるフリ」という言葉は痛かったけど、

おかげでこの指摘が私にとって、ものすごく大事なものであることがわかりました。

 

 

 

仕事が思いがけず休みになって、まさかの週末に時間ができた。

これは何のために時間をいただいたのかなと考えたとき、

ついに従姉妹に会いに行く時間をいただいたのでは!?と気持ちが昂ぶった。

 

しかし、自分の温度で事を進めようとした私を母は抑制してくれ、

実は聴く姿勢になれていない私を旦那さまが指摘してくれた。

自分の未熟さに落ち込んだし、正直迷いが生まれた。

 

だけど、逆に考えれば、これは応援だとも捉えられる。

 

大事なことをしようとしているからこそ、

その前に心構えと注意点を、教えてくれたのだと受け取ることもできる。

 

自分の温度を自覚し、相手の温度に合わせて、順序を考えて言葉を発する努力。

ただ聞いてるだけの自分を自覚し、相手の気持ちを聴いて受けとめる努力。

 

自覚って大事ですよね。

知らなければ、改善の努力もできない。

大事なこと教えてくれて、ありがとうございます!

 

 

私は、恵まれてる。

大人になったら、自分を叱ってくれる人は少ない。

自分の周りが甘い人ばかりだったら、自分は成長できないのだから。

 

昔はもっと甘えさせて欲しかった。

今は、自分が成長して高まっていくために、厳しさも欲しい。

旦那さまの厳しさは、今の私にとって、最高の優しさ。

 

 

 

 

反対側の落とし穴

  • 2017.05.16 Tuesday
  • 17:36

自分に自信を持てたのはいいが、

今度は相手への遠慮が足りない。

遠慮というか、配慮。

思いやり、だ。

冷たかった私は、今や逆に熱いくらいになった。

だけど
 

熱さを求めていない人もいる。

 

熱い自分の温度のままで相手にぶつかっちゃいけない。

相手の温度に合わせること。

 

母が教えてくれました…。ありがとう。




私は以前、自分が暗かったとき、
太陽みたいに明るい人ほど憎い存在はなかった…。

苦を抱える人と接するならば、あの感覚もまた大事だから、忘れないでいたい。



傲慢と同じ、
今の私の重要な課題。

 

 

 

仏教が教えてくれるのは、心が脱皮して成長する方法だと思う

  • 2017.05.16 Tuesday
  • 08:00
仏教は、というか信仰は、

自己の中を探検することだと思う。

それまで気がつかなかった自分に気づく。

こんな自分もいたのだと見つける。

自分の顔は鏡がないと見えないように、
自分の心は相手がいないと見えない。

相手に対し、物事に対し、現象に対し、
自分の心がどう反応したかで自分の心を知れる。

そして成長する。
自己が高まっていく。

高まるというか、
余分な「我」が脱げていって、本来の純粋な自分へ到達していくというか、
還っていくというか。


生きてきた中で知らず知らず縛られていた、鎖みたいな価値観や固定観念を、

気持ちよくほどいていってくれる。

自由にしてくれる。

自分を活かす道を教えてくれる。


今の自分は、自由で伸び伸びとして、
なんでもなくても楽しく、安心していて、随所に喜びがある。

そして、鎖でがんじがらめになっているような人をほっとけず、
何かしてあげたい、させていただきたいと思う。


自分を縛る鎖をほどくというよりも、
窮屈になった皮を脱いでもっと大きくなる、脱皮というほうが近いかも。


私は心理学とかは特に学んでいないけれども、
ことあるごとに、自分の心がどんどん脱皮していくのがわかる。

見栄っ張りの皮を脱いだ。

人と違うことを怖れる皮を脱いだ。

自分を卑下する皮を脱いだ。

受け身ばかりで自ら動かない皮を脱いだ。

まだまだある。
まだまだ脱皮できると思う。
わくわくする。

脱皮するたびに私は自由になり、成長を感じて嬉しくて清々しくなる。



今なかなか難しそうなのが、驕り。

つい、自分は「知っている」という傲慢。

まだまだ私は知らないものばかりだというのに、
うっかり、相手よりも自分は知っていると思ってしまう。

私の師は、
「苦しみに耐えるより、傲慢にならないほうが難しい。それが本当の忍耐。」
という感じのことを言いました。

苦しいことを耐えるよりも、
褒められて調子に乗ったり、自分の力に自惚れたり、傲慢になって上から目線になったり、
そうならないように耐えるほうが難しい、と。

いやまさに本当にその通りだと、私はこの言葉を励みにしています。

自分を卑下していた頃とは真逆の悩み。

謙虚でいたいです。


人に感謝させようとしない

  • 2017.05.16 Tuesday
  • 07:42
私は人に「ありがたいわね」と言わないでいたい。

「ありがたい」は本人が感じること。

人に感謝を強要しない。

自分が受けて自分が感じる。



自分が相手にしたことへ見返りを求めないのは当然だけど、

相手が受けている恩恵に対して、相手が感謝していないとき、
その恩恵に気づいてほしいとは思うけれども、
「○○ってありがたいわね」って相手に言うのは、違うと思う。

それは、押し付けになる。

ありがたい、って、
自ら気づいて感じてこそだ。



周りからすれば、その人を鍛え高める縁になっている物事であっても、

まだ出口の見えていない本人にとっては、苦しみ以外のなにものでもない。

それに、

本人が「ありがたい」と思っているとしても、
人から「ありがたいわね」と言われると、なんだか興醒めすることもある。

自分は、自分の見つけたものに感謝するだけ。

相手が見つけたものへ、相手を感謝させようとしない。

相手の苦しみに、寄り添う。

相手の喜びに、寄り添う。

決めつけない。押しつけない。

上から目線にならない。
ちょっと下から尊敬する目線。



「ありがたいわねぇ!」って正直ちょっと押しつけがましく言ってきた人がいて、

それに対して私の心はちょっと疑問を感じていたので、

「ありがたいわね」っていう言葉は、
実は相手に寄り添っていないのだと、教えてくれた人だと思いました。


うっかりやりがちな、とても大事なことを、身をもって教えてくれた。

反面教師と言っては失礼かもしれませんが、
それこそ本当にありがたいです。


自分に課していく

  • 2017.05.08 Monday
  • 17:07
正しい道理、
理想的な心理、
そういうものがわかってくると、

ついつい相手にもそれを求め、相手へ課してしまう自分がいます。

そういうものは、とにかく徹底して、
自分だけに課していくのだ!と、
看板に書いて自分の心へ打ち付けたい…。笑

相手にも実践してほしいのなら、
まずは自分から!

クライシス

  • 2017.05.08 Monday
  • 14:06

どの国へ行きたいかという話題で、

「どこでもいいよ。」

「俺ならハワイがいいなぁ。
あったかいとこで、過去のことは忘れて楽しく暮らすんだ」

「記憶でも失わない限り、どこに行っても同じだよ。
人はそう簡単には変われない。
住む場所が変わっても、すぐに前と同じ日常が、生活に染み込んでくる。」

「じゃあ…
過去の自分と決別したい場合は、どうすればいい?」


「…さぁな。

ただ大事なのは、『どこにいるか』じゃなくて、『そばに誰がいるか』だ。
それだけは間違いない。」





このシーン大好きです。



そしてバーで出会った泣いている女性にそれを教え、そっとそばにいてあげる。

その後、自分が打ちのめされているときに、今度はその女性がそっと、そばにいてくれる。


なんて、美しい流れ。



正直言うと最初は西島さん目当てで録画しておいたのですが、

いいドラマだなぁ。

 

 

 

実はマイホーム計画中2

  • 2017.05.02 Tuesday
  • 11:42

 

去年の10月に、間取りとか色々は決まったんです。

そこから工務店さんとか土木事務所さんとかが、
ここがダメ、やり直し、今度ここがダメ、やり直し、
って何度も何度も書類上のやりとりをしていたらしく、


「まだ確認申請がおりないんです」と言われて、気がつけば5月ですわ。

当初の計画では、そろそろ出来上がってきてて、
夏休みに引っ越せるとか何とか聞いた覚えが。笑

前にも書いたように、それについては何も思ってはいないんですが、

まがりなりにも私は仏教徒。
全て自分に課す生き方を実践したいわけですので、

目の前の現象から自分が何を学ぶのか。

「間取りが出来ているのに、実際に家が建たない現象」。

私はこの現象を、
「頭で勉強はしているのに、実際に行動が伴わない自分」と捉えました。

勉強はしています。意欲もあります。
しかし私は大事なことをしていないんです。

 

御供養です…。


私は仏教の哲学ばかりを学んで、
実際に仏さまご先祖さまへ御供養をしていないんです。

本来なら毎日、朝は誓願、夕は感謝であげさせていただく御供養。
お経もそうですが、飯・水・茶すらあげていません。

そして、そう気付いてからもなかなか、「わかっちゃいるけどできない自分」。

「学ばかりで、行がない自分」。

まさに「図面ばかりで、建たない家」みたい。



「お前、家のことどう思ってる?」と若干キレ気味な旦那さまや、

「ねぇ、家ってどうなってるの…」とテンションだだ下がりな子供たちを見て、

ようやく「全て自分に課す」ということが腑に落ちた私。

心機一転、毎日朝夕の御供養を始めました。

って言いたいですが、
ごめんなさい、せめて水とお茶をあげて合掌、礼拝するようにしました。

こういうのは気持ちが大事。という言い訳。

 

でも完璧にできるかできないかを重要視するのでなく、

完璧を目指しつつ、今できることを精一杯やるのが大事だと思います。



そしたら旦那さまから

「工務店から連絡あって、ようやく確認申請がおりたって」


キター(・∀・)



最近こういうの本当に多いので、
「ですよね〜…」
という気持ちです。

すみませんでした…

心を込めて、できる範囲で御供養いたします。



家は、住めればいい。
大事なのは、中で暮らす家族が幸せであること。

今は古くてボロくて時々雨漏りもする家だけど、
子どもちは「ずっとこの家でいい」と言ってくれました。

それでも引っ越さなければならない事情があるので仕方ないんですが、
それがマイホーム新築の道へと繋がった。

ありがたく努力しようと思います。





って打ってたら、ちょうどお客さんが来ました。

その人は「命の次に大事なお金」というワードを口にされてましたが、

その後にこう言ってました。

「私はね、生活が苦しかった時期もあったけど、
お金がなくて貧乏で喧嘩もしているなんて、惨めでしょう。
だから私、言ったの。
『お父さん、お金がなくて貧乏でも、喧嘩はしないでいようね』って。」

そこからご主人とは喧嘩が少なくなり、穏やかになれたそうです。

「命の次にお金が大事」と言った人がです。

すごい。

私は、幸いお金には大きな苦労がないので執着も目立っていませんが、
何らかの理由で生活が苦しくなっても、心だけは穏やかに暮らせる私でありたい。

たとえお金がなくても、
たとえ事故で動けなくなっても、
たとえ病気で声が出なくなっても、
目の前にいる人に、感謝で笑顔を向けられる人でありたい。

無財の七施の中で出来ることをしたい。



頑張って建てたとしても、何らかの理由で家族から笑顔が消えるなら、

家に執着なんかしない。手放したっていい。
家を建てるのは、家族の笑顔のため。

うん。

忘れちゃいけない。