「アリとキリギリス」

  • 2017.02.27 Monday
  • 22:47

 

アリ……真面目で勤勉の象徴。

キリギリス…大雑把で怠惰の象徴。
 

だとして。

 

 

 


幼少の頃から「アリでなければならない」と言われ続け、自身もアリの性分を持つ母が、
キリギリスの性分を持って生まれた私を育てた。

「アリでなければならない」のに「アリにならない娘」に母は苦しみ、

「アリでなければならない」のに「キリギリスな自分」に娘は苦しんだ。

私がアリの性分ならば、お互い何も苦しくなかったんだろう。

とにかく苦しかった。
30年苦しかった。

でも何も苦しくなかったら、何も成長しなかったはず。

そして世の中には、キリギリスでもいいのだという価値観があることを知った。
私は生まれ変わるほどの衝撃と喜びを感じた。
それはたくさん苦しむことができたからこそ感じられたこと。

おなかがぺっこぺこに空いていたからこそ、食べたものがむちゃくちゃ美味しかったんです。

そして、人間とはアリでもキリギリスでもない中間がいちばん楽で、ほどほどが良いのだと知りました。



だけど、母は違った。

もしかしたら、母と私は順番が逆なのかもしれない。

母は、アリが正しいという絶対の信心があった。
その信心で子育てをした。

しかし仏教を学ぶうちに、キリギリスにはキリギリスの良さがあること、
アリとキリギリスの中間こそが理想であることを知った。

母は、キリギリスの娘を認めることができずに、自分がアリの教育を強いてきたことで娘が病んでしまったと思い、ものすごく悔いた。

そして母はキリギリスを受け入れるべく、努力をたくさんするようになる。

しかし努力が「キリギリスの肯定」にばかり目が行き、いつしか頭の中に「アリの否定」が混ざる。

だけどアリであることこそが母のアイデンティティ。

キリギリスの肯定と自我とのギャップ。矛盾。

自我をなくしていくのが仏教徒、とはいえ、完全に自我をなくせる一般人はいないと思う。

また、なくす必要もないと思う。


私にできることは何か?

 

といっても母は私の大先輩。私などよりたくさん勉強してきた人だ。

べつに私の助けなどはいらないのはわかっているうえでの、私にさせていただけることは何か。

やはり、肯定だと思う。「アリの肯定」。

母を肯定していくことだ。

アリも素晴らしい。
母はアリでいいのだ。
そして私はキリギリスでいいのだ。

アリとキリギリスの中間が理想、というのはあくまでも最終目的地。

アリならアリの自分を、
キリギリスならキリギリスの自分を、
自分らしさを、認めて許して受け入れることが大事な大前提だ。

 

 


自分を許せない人は周りを許せない。
自分を愛せない人は周りを愛せない。

自分を許し自分を受け入れられると、周りを許し受け入れられるようになる。

自分を大事にできる人は、周りをも大事にできる。

私は自分がキリギリスであることを認め、
キリギリスであることを許すことができ、
受け入れるということの本当の意味がわかってきた。



いい天気とは、晴れではない。
晴れも雨も曇りも嵐も、いろんな天気があることが本当の「いい天気」。

人間社会も、アリからキリギリスまで、いろんな価値観があることがいいんだ、と思えるのが本当にいい価値観。

白から黒までの間の、何色でもいいと思える柔軟さ。
青いのなら青でいい。


「そうなの、私って青いの!これが私。」

 

と笑顔で認められる、なんのこだわりもとらわれもない自由な心。

そのうえで、あくまでも指標として、自分自身は中間を目指すことなんだと思う。
そして自分以外に対しては、なんでも来い♪という広けた心を持っていたい。


こだわらない。こだわらない。

こだわらないことにも、こだわらない。

アリとキリギリスの中間はもちろん理想だけれど、
キリギリスだっていいじゃない。
アリだっていいじゃない。

やっとそう思えました。

 

 

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