いま私が学んでいること

  • 2017.04.28 Friday
  • 18:01




学んでいるものはもちろん仏教なんですけれども、

私が目指しているものは、俗にいうカウンセラーとかセラピストと呼ぶものだと思います。

苦しむ人を救いたい。
癒したい。
せめて話を聞いてさしあげたい。

自分がたくさん苦しんだからこそ、そして救われたからこそ、
もう、苦しむ人をほっとけなくてほっとけなくて、切実なくらい助けたいと思ってるんです。


そのための道として私は、今から大学に通って色々と学ぶよりも、
まずはせっかく仏教を学べる環境に恵まれているのだから、素直にありがたく受けさせていただいています。

事実、私は心療内科も通ったし、大きな病院で心理テストもカウンセリングも受けましたが、
解決法は結局「自分が成長する」ということに尽きるんです。

私にとっては、その道しるべをくれたのは、仕事と家族と仏教です。
この3つのどれが欠けても、今の私は成り立たないとハッキリわかります。


要は自分を高めてくれる環境と、
それに気付かせてくれる「縁」が必要不可欠なわけで。

私はその「縁」になりたいんです。


私はあなたの壁を倒してあげることはできないけれど、
壁に悩むあなたの心を汲んで、あなたが壁を乗り越えられるあなたになるお手伝いをしたい。




お釈迦様のエピソードで、私がリスペクトしている話。


【釈尊のもとへ、息子を失った母親が来ました。

その母親は、息子の死が悲しくて悲しくて、私も死んでしまいたいと話します。

釈尊は彼女に、
「息子の後を追って死ぬくらいなら、死んだ息子を生かしてみないか」
と言いました。

そして
「ぜひ!息子を生き返らせてください!」
と懇願する母親に、

「では、村の中で死者を出したことがない家から、火をわけてもらっておいで」
と言いました。

母親は一軒一軒、訪ね歩きました。
「死者を出したことがない家はどこですか。その家から火をもらえたら、息子は生き返るんです」

なにをバカな、そんな家あるか!と怒られることもありました。
当時のインドでは、何世代もの家族が一緒に暮らしており、死者を出したことがない家など無いのです。

母親は釈尊のもとへ戻り、
「死者を出したことがない家はありませんでした」
と報告しました。

すると釈尊は
「命あるものは死ぬ。この世は無常なのだ。あなたがその無常に気付くことこそ、死んだ息子を生かすことなのではないか」
と優しく諭しました

母親は、一軒一軒まわり歩くうちに、悲しい死を経験したのは自分だけではないと気付いていました。
そして釈尊の教えに感動して帰依しました。】



この話は子供の頃から知っていましたが、当時はちっとも感動しませんでした。

私が仏教を学ぶようになり、実際に人の悩みを聴いたり助言したりを経験するようになって、
いま初めてその凄さを感じています。

だって「死にたい」って言われて「生かしてみないか」って言えますか。

死んだら生き返らないという常識や固定観念が邪魔をして、そんな発想なかなか出ません。

しかも釈尊は誰よりも、無常を理解し尽くしている。
いわば最新科学の最先端。

それでいて、愛しい息子を失った母親の気持ちもしっかり汲まれて、むしろそれを巧みに活かしている。

この話は、母親が自分の足で一軒一軒訪ねるところが欠かせないと思うのです。

もし最初からこんこんと無常を説いても、母親は頭では理解しても、腑には落ちなかったはず。

悲しむ母親の気持ちを否定せず受けとめ、
方便を使って前を向くエネルギーを与え、
自分から気付けるように巧く仕向け、
タイミングを見計らって諭す。

なんという完璧な流れ。

こんなことを2500年前にすでにやっていたわけです。

お釈迦様って、超凄腕心理カウンセラーじゃないですか?

釈尊はご自分で、この世の法則と人間の心を完璧に見抜いていたんです。

自分が少しずつ理解するたびに、釈尊の凄さがどんどん浮き彫りになっていきます。

すごいなぁ。



先日から私は、法華経を「深く」学び始めましたが、

それまで自分で読んだときには全くわからなくて、
最初なんて、なんかひたすら色んな存在が釈尊を褒め称えている…なにこれ?と思いました。

おでこから光がビームみたいに出たり、話し始めるのかと思ったら瞑想に入ったり。
意味わからないし、ついていけない…
それが最初の感想でした。


でも、全然違いました。

あのお話には、あちこちに深い意味がちりばめられていたんですね、驚きました!


最初のシーンはプロローグ。
法華経の教えそのものはまだその先にありますが、その教えに入るための入り口です。


釈尊のまわりには、
菩薩たちから、修験者、ごく普通の一般ピーポー、悪人、動物、虫、果ては龍神や鬼まで、ありとあらゆる生物がいる。

まず大事なのが、そこで何をしているのか、よりも、
まず、なぜそんなに多種多様ありとあらゆる生物が登場しているのかということ。


それは、
仏の教えが、どんな存在に対しても平等であることを意味していたんです。


昔のインドっつったら、バリバリの身分差別のイメージですが、
そんな世の中で釈尊は「生きとし生けるものは全て平等だ」と言ったんです。

偉い、卑しい、美しい、醜い、善人、悪人、むしろ人間にすら限らない、
全てが平等であると言ったんです。


ということは他教も排斥しません。
これは特に素晴らしいと思う。

ついつい自分の宗教を重んじて「他の教えは良くない」となりがちなものもありますが、

仏教は、他を否定して我を押し通した時点で、それはもう仏教じゃありません。

仏さまは私たちに、徹底して寛容なんです。


そして、
仏の教えは、いつでも、どこでも、誰にでも当てはまる教えだと言っています。

私も、今は間違いなくそうだと思えます。


学べば学ぶほど仏教とは、信じれば救われるだとか、そんなものじゃなく、
むしろ逆、超科学的だと私は思いました。

重力があるからリンゴは上から下へ落ちるんだってくらい、理にかなっているんです。


宗教って、一般的にはどういうイメージなんでしょうか。
怖いとか怪しいとか、洗脳とか?
確かに本当に怖いことする団体ありますもんね…。

そして「死後の世界」みたいなイメージもあるのでしょうか。

私としては、めちゃめちゃもったいなくて残念です。

宗教は生きる教え。

仏教なんてまさに、家庭や職場や学校で、すぐに活かせる知恵の集まりの宝庫です。


怖い団体ばかりクローズアップされて、本物の教えをほとんどお坊さんしか知らないようでは、もったいなさすぎる。


だから私は、勉強します。

もうだいぶ「うわ〜本当だった!」ってやつありますが、まだまだ深く知りたい。

そして独り占めするのではなく、伝えていきたい。


実を言うと、いずれ出家して僧侶になりたい気持ちもなくはないのですが、

悩み苦しむ人がそれを吐き出せるカウンセラーのような、

罪悪感に苛まれる人が吐き出せる牧師さんのような、

まるごと受けとめて寄り添うお母さんのような、

そういう存在になりたいわけで、
それができれば僧侶でも主婦でも、なんでもいいやと思いました。



まだまだこれから。

たくさん学んで、まず私は、人の気持ちを「聞ききる」ことができるようになりたい。

決して否定しない、聞き役に徹する人に。

しかし意見を求められた時には、法則(真理)と相手の気持ち(心理)をちゃんと見極めて、ヒントをあげられるような人に。
 

 

ただ正しい、ただ優しい、ではなく、


「真心」のある人に。

 


 

 

 

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