仏教が教えてくれるのは、心が脱皮して成長する方法だと思う
- 2017.05.16 Tuesday
- 08:00
仏教は、というか信仰は、
自己の中を探検することだと思う。
それまで気がつかなかった自分に気づく。
こんな自分もいたのだと見つける。
自分の顔は鏡がないと見えないように、
自分の心は相手がいないと見えない。
相手に対し、物事に対し、現象に対し、
自分の心がどう反応したかで自分の心を知れる。
そして成長する。
自己が高まっていく。
高まるというか、
余分な「我」が脱げていって、本来の純粋な自分へ到達していくというか、
還っていくというか。
生きてきた中で知らず知らず縛られていた、鎖みたいな価値観や固定観念を、
気持ちよくほどいていってくれる。
自由にしてくれる。
自分を活かす道を教えてくれる。
今の自分は、自由で伸び伸びとして、
なんでもなくても楽しく、安心していて、随所に喜びがある。
そして、鎖でがんじがらめになっているような人をほっとけず、
何かしてあげたい、させていただきたいと思う。
自分を縛る鎖をほどくというよりも、
窮屈になった皮を脱いでもっと大きくなる、脱皮というほうが近いかも。
私は心理学とかは特に学んでいないけれども、
ことあるごとに、自分の心がどんどん脱皮していくのがわかる。
見栄っ張りの皮を脱いだ。
人と違うことを怖れる皮を脱いだ。
自分を卑下する皮を脱いだ。
受け身ばかりで自ら動かない皮を脱いだ。
まだまだある。
まだまだ脱皮できると思う。
わくわくする。
脱皮するたびに私は自由になり、成長を感じて嬉しくて清々しくなる。
今なかなか難しそうなのが、驕り。
つい、自分は「知っている」という傲慢。
まだまだ私は知らないものばかりだというのに、
うっかり、相手よりも自分は知っていると思ってしまう。
私の師は、
「苦しみに耐えるより、傲慢にならないほうが難しい。それが本当の忍耐。」
という感じのことを言いました。
苦しいことを耐えるよりも、
褒められて調子に乗ったり、自分の力に自惚れたり、傲慢になって上から目線になったり、
そうならないように耐えるほうが難しい、と。
いやまさに本当にその通りだと、私はこの言葉を励みにしています。
自分を卑下していた頃とは真逆の悩み。
謙虚でいたいです。
自己の中を探検することだと思う。
それまで気がつかなかった自分に気づく。
こんな自分もいたのだと見つける。
自分の顔は鏡がないと見えないように、
自分の心は相手がいないと見えない。
相手に対し、物事に対し、現象に対し、
自分の心がどう反応したかで自分の心を知れる。
そして成長する。
自己が高まっていく。
高まるというか、
余分な「我」が脱げていって、本来の純粋な自分へ到達していくというか、
還っていくというか。
生きてきた中で知らず知らず縛られていた、鎖みたいな価値観や固定観念を、
気持ちよくほどいていってくれる。
自由にしてくれる。
自分を活かす道を教えてくれる。
今の自分は、自由で伸び伸びとして、
なんでもなくても楽しく、安心していて、随所に喜びがある。
そして、鎖でがんじがらめになっているような人をほっとけず、
何かしてあげたい、させていただきたいと思う。
自分を縛る鎖をほどくというよりも、
窮屈になった皮を脱いでもっと大きくなる、脱皮というほうが近いかも。
私は心理学とかは特に学んでいないけれども、
ことあるごとに、自分の心がどんどん脱皮していくのがわかる。
見栄っ張りの皮を脱いだ。
人と違うことを怖れる皮を脱いだ。
自分を卑下する皮を脱いだ。
受け身ばかりで自ら動かない皮を脱いだ。
まだまだある。
まだまだ脱皮できると思う。
わくわくする。
脱皮するたびに私は自由になり、成長を感じて嬉しくて清々しくなる。
今なかなか難しそうなのが、驕り。
つい、自分は「知っている」という傲慢。
まだまだ私は知らないものばかりだというのに、
うっかり、相手よりも自分は知っていると思ってしまう。
私の師は、
「苦しみに耐えるより、傲慢にならないほうが難しい。それが本当の忍耐。」
という感じのことを言いました。
苦しいことを耐えるよりも、
褒められて調子に乗ったり、自分の力に自惚れたり、傲慢になって上から目線になったり、
そうならないように耐えるほうが難しい、と。
いやまさに本当にその通りだと、私はこの言葉を励みにしています。
自分を卑下していた頃とは真逆の悩み。
謙虚でいたいです。