人に感謝させようとしない

  • 2017.05.16 Tuesday
  • 07:42
私は人に「ありがたいわね」と言わないでいたい。

「ありがたい」は本人が感じること。

人に感謝を強要しない。

自分が受けて自分が感じる。



自分が相手にしたことへ見返りを求めないのは当然だけど、

相手が受けている恩恵に対して、相手が感謝していないとき、
その恩恵に気づいてほしいとは思うけれども、
「○○ってありがたいわね」って相手に言うのは、違うと思う。

それは、押し付けになる。

ありがたい、って、
自ら気づいて感じてこそだ。



周りからすれば、その人を鍛え高める縁になっている物事であっても、

まだ出口の見えていない本人にとっては、苦しみ以外のなにものでもない。

それに、

本人が「ありがたい」と思っているとしても、
人から「ありがたいわね」と言われると、なんだか興醒めすることもある。

自分は、自分の見つけたものに感謝するだけ。

相手が見つけたものへ、相手を感謝させようとしない。

相手の苦しみに、寄り添う。

相手の喜びに、寄り添う。

決めつけない。押しつけない。

上から目線にならない。
ちょっと下から尊敬する目線。



「ありがたいわねぇ!」って正直ちょっと押しつけがましく言ってきた人がいて、

それに対して私の心はちょっと疑問を感じていたので、

「ありがたいわね」っていう言葉は、
実は相手に寄り添っていないのだと、教えてくれた人だと思いました。


うっかりやりがちな、とても大事なことを、身をもって教えてくれた。

反面教師と言っては失礼かもしれませんが、
それこそ本当にありがたいです。


自分に課していく

  • 2017.05.08 Monday
  • 17:07
正しい道理、
理想的な心理、
そういうものがわかってくると、

ついつい相手にもそれを求め、相手へ課してしまう自分がいます。

そういうものは、とにかく徹底して、
自分だけに課していくのだ!と、
看板に書いて自分の心へ打ち付けたい…。笑

相手にも実践してほしいのなら、
まずは自分から!

クライシス

  • 2017.05.08 Monday
  • 14:06

どの国へ行きたいかという話題で、

「どこでもいいよ。」

「俺ならハワイがいいなぁ。
あったかいとこで、過去のことは忘れて楽しく暮らすんだ」

「記憶でも失わない限り、どこに行っても同じだよ。
人はそう簡単には変われない。
住む場所が変わっても、すぐに前と同じ日常が、生活に染み込んでくる。」

「じゃあ…
過去の自分と決別したい場合は、どうすればいい?」


「…さぁな。

ただ大事なのは、『どこにいるか』じゃなくて、『そばに誰がいるか』だ。
それだけは間違いない。」





このシーン大好きです。



そしてバーで出会った泣いている女性にそれを教え、そっとそばにいてあげる。

その後、自分が打ちのめされているときに、今度はその女性がそっと、そばにいてくれる。


なんて、美しい流れ。



正直言うと最初は西島さん目当てで録画しておいたのですが、

いいドラマだなぁ。

 

 

 

ジョギング

  • 2017.05.07 Sunday
  • 18:19

 

先日の口内炎を機に、摂りすぎていた食事を減らし、

 

ならば身体も引き締めようと、久しぶりに自宅カーヴィーダンスを再開し、

 

でもなんだか物足りないというか

「もっと動きたい!」と思って、 いよいよ外を走ってみました。

 

 

走る、っていう動作は日常に少なくはないけれど、

それは急ぐため、時間短縮のために小走りしているわけで、

走るために走ったことは、学生以来かもしれない。

 

しかも自発的に走りたくて走ったことは、初めてだと思う。

 

 

昔、小学生の頃、夏休みのラジオ体操のあとだったか、親子ジョギングがあった。

そこで一緒に走ってくれた父から、呼吸法を教わった。

 

父オリジナルの呼吸法かと思ったけど、本当に走りやすくなった。

それ以来、マラソン大会やら持久走やらは、父の呼吸法を実践している私がいた。

 

そして今日、庭を出て走り始めると、自然とその呼吸法を思い出していた。

 

歩くよりは速いってくらいの、ゆったりジョギング。

 

足を動かし、腕を動かし、意識するのは動きと呼吸が合っていて一定であること。

 

周りの景色も見てはいるけれど、意識は一定の動きと呼吸に集中。

 

しばらく続けていると、馴染んできて心地よくなってきた。

 

人通りのない田舎道。

昔は誰かに見られるのが恥ずかしくて散歩もできなかったけれど、

車が通るとむしろ

「いや〜ジョギング気持ちいいっすよ!」と言いたいくらい、清々しかった。

 

 

予定のコースを終えそうになると「もっと走っていたい」と思って、

家を通り過ぎて反対方向へ。

 

自分の足。腕。呼吸。 空気。風。景色。

 

集中しつつも、ゆるやかで、どこか厳かな気持ち。

 

自己と対面していくような。

 

 

座禅って、こんな感じなのかな。

挑戦したことはまだないけど、

(そして挑戦してみたいけど)

「とらわれず、余念なく、ただひたすら」という心境が、

これも禅だと勝手に思わせてもらった。

 

 

そうして、山とか空とかを見るともなく見ながら、思った。

 

 

ああ、私いま、地球を走ってる。

 

地球と一体のような、地球が私を包み込んでくれているような、安心感。

 

私、地球に生かされている。

 

 

なんか、そんな感じがした。

 

 

 

すごく爽快で気持ち良かった。

 

汗もいっぱいかけて、めっちゃスッキリしたぁー!

私、サウナよりジョギングのほうが好きかもしれない。

 

 

ゴールデンウィーク中は毎日出勤だったけど、

休みじゃなくても、できることは色々あった。

 

子供たちと散歩をしたり、

ドンジャラをしたり、

回転寿司を食べに行ったり。

 

仕事から帰ってから夕食までの、ちょっとした夕方の時間で、

むしろ普通の休日よりも楽しめた気がする。

 

ダラダラと過ごす暇な休日もそれはそれで良いけれど、

限られた時間をいかに有効に使うかを考え、それを存分に楽しむためには、

ある程度の制限があるほうが良いということに、実感をもって納得。

 

時間に限りがあるほうが、その時間を大切に使えて宝物になる。

 

命も限りがあるからこそ、大切に使うことで輝くんだ。

 

 

 

実はマイホーム計画中2

  • 2017.05.02 Tuesday
  • 11:42

 

去年の10月に、間取りとか色々は決まったんです。

そこから工務店さんとか土木事務所さんとかが、
ここがダメ、やり直し、今度ここがダメ、やり直し、
って何度も何度も書類上のやりとりをしていたらしく、


「まだ確認申請がおりないんです」と言われて、気がつけば5月ですわ。

当初の計画では、そろそろ出来上がってきてて、
夏休みに引っ越せるとか何とか聞いた覚えが。笑

前にも書いたように、それについては何も思ってはいないんですが、

まがりなりにも私は仏教徒。
全て自分に課す生き方を実践したいわけですので、

目の前の現象から自分が何を学ぶのか。

「間取りが出来ているのに、実際に家が建たない現象」。

私はこの現象を、
「頭で勉強はしているのに、実際に行動が伴わない自分」と捉えました。

勉強はしています。意欲もあります。
しかし私は大事なことをしていないんです。

 

御供養です…。


私は仏教の哲学ばかりを学んで、
実際に仏さまご先祖さまへ御供養をしていないんです。

本来なら毎日、朝は誓願、夕は感謝であげさせていただく御供養。
お経もそうですが、飯・水・茶すらあげていません。

そして、そう気付いてからもなかなか、「わかっちゃいるけどできない自分」。

「学ばかりで、行がない自分」。

まさに「図面ばかりで、建たない家」みたい。



「お前、家のことどう思ってる?」と若干キレ気味な旦那さまや、

「ねぇ、家ってどうなってるの…」とテンションだだ下がりな子供たちを見て、

ようやく「全て自分に課す」ということが腑に落ちた私。

心機一転、毎日朝夕の御供養を始めました。

って言いたいですが、
ごめんなさい、せめて水とお茶をあげて合掌、礼拝するようにしました。

こういうのは気持ちが大事。という言い訳。

 

でも完璧にできるかできないかを重要視するのでなく、

完璧を目指しつつ、今できることを精一杯やるのが大事だと思います。



そしたら旦那さまから

「工務店から連絡あって、ようやく確認申請がおりたって」


キター(・∀・)



最近こういうの本当に多いので、
「ですよね〜…」
という気持ちです。

すみませんでした…

心を込めて、できる範囲で御供養いたします。



家は、住めればいい。
大事なのは、中で暮らす家族が幸せであること。

今は古くてボロくて時々雨漏りもする家だけど、
子どもちは「ずっとこの家でいい」と言ってくれました。

それでも引っ越さなければならない事情があるので仕方ないんですが、
それがマイホーム新築の道へと繋がった。

ありがたく努力しようと思います。





って打ってたら、ちょうどお客さんが来ました。

その人は「命の次に大事なお金」というワードを口にされてましたが、

その後にこう言ってました。

「私はね、生活が苦しかった時期もあったけど、
お金がなくて貧乏で喧嘩もしているなんて、惨めでしょう。
だから私、言ったの。
『お父さん、お金がなくて貧乏でも、喧嘩はしないでいようね』って。」

そこからご主人とは喧嘩が少なくなり、穏やかになれたそうです。

「命の次にお金が大事」と言った人がです。

すごい。

私は、幸いお金には大きな苦労がないので執着も目立っていませんが、
何らかの理由で生活が苦しくなっても、心だけは穏やかに暮らせる私でありたい。

たとえお金がなくても、
たとえ事故で動けなくなっても、
たとえ病気で声が出なくなっても、
目の前にいる人に、感謝で笑顔を向けられる人でありたい。

無財の七施の中で出来ることをしたい。



頑張って建てたとしても、何らかの理由で家族から笑顔が消えるなら、

家に執着なんかしない。手放したっていい。
家を建てるのは、家族の笑顔のため。

うん。

忘れちゃいけない。

 

 

 

日向ぼっこ

  • 2017.05.02 Tuesday
  • 10:07

よく晴れて、日向ぼっこ中のミーアさん。

 

 

暖かくなって抜け毛が多いので、

久しぶりにラバーブラシでブラッシング(しながらの撮影)。

 

 

 

 

「ハイこっちも」って感じで反対側にごろんするミーアさん。

 

 

 

 

 

腹側も向けて、完全に身を委ねるミーアさん。

こんなに委ねられると、期待と信頼を絶対に裏切れません。笑

 

 

 

 

 

恍惚。

 

 

 

 

 

和みました。

 

 

 

仕事が繁忙期なので、明日から1週間、休み無し。

長男と次男は休みで、長女は午前中だけ部活。

夕方まで仕事して、そこから夜までの間で家族サービス頑張ります。

 

何ができるかな♪

 

 

決意

  • 2017.04.30 Sunday
  • 17:35

 

 

私は35歳頃まで利己主義に生きていて、しかもその自覚がありませんでした。

 

いつも人を気にかけているつもりでいて、

その実は、自分が人からどう思われているのかを気にしているだけでした。

 

人を心配しているつもりで、

本当に心配していたのは自分がどう評価されるかという事だった。

 

心底からそれを気付くのに35年かかりました。

 

気付いたキッカケはもちろん仏教含め色々あるのですが、 きっと1番大きかったのは、

「こんな自分にも、誰かを助けることができる力がある」 と知ったこと。

 

自分を卑下しまくっていた時の私は、

生きてる価値がないと感じるどころか、生きてるだけで害悪だと感じ、

いつどこでどうすれば、迷惑をかけずに死ねるだろうかと、そればかり。 

 

しかしその反面で、 もしもできるならば、

私のために悲しんでくれる人がいる時に死にたいと思っていました。

 

誰か、私のために泣いてほしいと、本気で願っていました。

 

私は誰かに必要とされたかった。

 

私を必要としている子どもたちの存在が、見えていなかったわけではなく、

私は、彼らにはもっと素晴らしい母親がいるほうがいいと思っていました。

そもそも主人に、もっと素晴らしい奥様が必要だと思っていました。

 

 

小さい頃から夜は眠れず、学校では給食を食べられず、

なんだかいつも息苦しくて、心には大きな穴がぼっかり空いていて、

常に巨大な寂しさがつきまとい、友情も恋も必死で思いが激しくて極端、

安らかになれるのは、絵を書いている時と楽器を弾いている時だけ。

 

 

そんな私を救ってくれたのは主人でした。

しかし私を苦しめたのも主人でした。

 

私が境界性人格障害を持っていることは、結婚してから判明しました。

 

いつも不機嫌で、いつも私を否定し、何度も離婚を望むようになった主人に対して、

私は左腕を傷だらけにして、泣いてすがり付くしかできなかった人間でした。

 

私では家族を不幸にするばかりだから、

私じゃダメだ、と諦めて逃げていたのかもしれません。

 

その反面で、主人に対する不満は山ほど抱えていました。

 

 

今ならわかります。

 

私には、感謝が無かった。

 

そして視野がものすごく狭かった。

 

 

自分が相手から不快にされたことはよく見えて、

 

自分が相手を不快にしてしまったこともよく見えて、

 

だけど自分が相手から支えてもらっていることが見えていなくて、

 

そして自分が相手を支えていないことが見えていなかった。

 

 

優しくない主人、

冷たい主人、

私を否定する主人…

 

実はそれはそのまま、私だった。

 

優しくなかったのは、私。

冷たかったのは、私。

主人を否定していたのは、私でした。

 

 

好きだから、ずっと欲しがってばかりで、追いかけていた。

 

でもそれって、愛じゃなかった。

 

 

愛するって、欲しがるんじゃなくて、与えてあげることだった。

 

追いかけるんじゃなくて、温かく迎えてあげることだった。

 

足りないところを責めるのではなくて、

ありのままを認めて受け入れ、許してあげることだった。

 

 

自分の不安を気にするよりも、相手がどうすれば喜ぶのかを考えること。

 

 

私はそれを理解できるまで、35年かかりました。

 

 

 

でも、心の底からそれを理解したら、私の視界は180度ぐるんっと変わりました。

 

苦痛でたまらなかったものが、実は幸せの素だったと知りました。

 

厳しい言葉は、まさに私が必要とされていた証拠でした。

 

愛情を欲しがっていたのは、お互い様だったんです。

 

 

やっと夫婦になれた。

やっと家族になれた。

今がいちばん幸せ。

 

私たぶん、もういつ死んでも悔いがないです。

 

だからもう、与える側になるんです。

 

飢えて渇いて常に欲しがってばかりだった私は、

今は潤いが満ち溢れていて誰かに分け与えたい私になった。

 

 

欲しがれば欲しがるほど、渇きは悪化していったのに、

不思議なほど、与えれば与えるほどに、さらに満ち足りていく。

 

私は答えを見つけた。

私は生き方を見つけた。

これからは私を与えていく。

 

飢えた35年がもしも人生の前半なら、 人生の後半の35年は私は与えるために使います。

 

 

 

故郷の古書画展

  • 2017.04.30 Sunday
  • 16:18

170429_173629.jpg

 

 

行ってきちゃった。

ずっと楽しみにしてました!

 

私の4代前のご先祖様…!!

 

 

 

本家と縁が切れているので、大きい声で言えないんだけど、

あなたの血を引いた玄孫のひとりです。

 

私は物心ついた頃には、自然に絵を書いていました。

食べるより寝るより、ずっと絵を書いていたい子どもでした。

そしてある時あなたの事を知って、どんな方だったのかと興味津々でした。

 

今は絵を書いていないのですが、家事育児と仕事の合間をぬって、今は仏教を学んでいます。

そしたら、あなたも寺院で修行されていた時期があったのですね…!

嬉しくてますます興味がわいて、そして私も絵を書きたくなってきました。

 

玄孫がもし仏道を歩みながら絵を書いていたら、あなたは喜んでくれるでしょうか。

 

 

 

写真撮影がオッケーだ!っていうので

お言葉に甘えてバシバシ撮ってしまいました。

その一部を続きに貼っときます。

 

 

続きを読む >>

いま私が学んでいること

  • 2017.04.28 Friday
  • 18:01




学んでいるものはもちろん仏教なんですけれども、

私が目指しているものは、俗にいうカウンセラーとかセラピストと呼ぶものだと思います。

苦しむ人を救いたい。
癒したい。
せめて話を聞いてさしあげたい。

自分がたくさん苦しんだからこそ、そして救われたからこそ、
もう、苦しむ人をほっとけなくてほっとけなくて、切実なくらい助けたいと思ってるんです。


そのための道として私は、今から大学に通って色々と学ぶよりも、
まずはせっかく仏教を学べる環境に恵まれているのだから、素直にありがたく受けさせていただいています。

事実、私は心療内科も通ったし、大きな病院で心理テストもカウンセリングも受けましたが、
解決法は結局「自分が成長する」ということに尽きるんです。

私にとっては、その道しるべをくれたのは、仕事と家族と仏教です。
この3つのどれが欠けても、今の私は成り立たないとハッキリわかります。


要は自分を高めてくれる環境と、
それに気付かせてくれる「縁」が必要不可欠なわけで。

私はその「縁」になりたいんです。


私はあなたの壁を倒してあげることはできないけれど、
壁に悩むあなたの心を汲んで、あなたが壁を乗り越えられるあなたになるお手伝いをしたい。




お釈迦様のエピソードで、私がリスペクトしている話。


【釈尊のもとへ、息子を失った母親が来ました。

その母親は、息子の死が悲しくて悲しくて、私も死んでしまいたいと話します。

釈尊は彼女に、
「息子の後を追って死ぬくらいなら、死んだ息子を生かしてみないか」
と言いました。

そして
「ぜひ!息子を生き返らせてください!」
と懇願する母親に、

「では、村の中で死者を出したことがない家から、火をわけてもらっておいで」
と言いました。

母親は一軒一軒、訪ね歩きました。
「死者を出したことがない家はどこですか。その家から火をもらえたら、息子は生き返るんです」

なにをバカな、そんな家あるか!と怒られることもありました。
当時のインドでは、何世代もの家族が一緒に暮らしており、死者を出したことがない家など無いのです。

母親は釈尊のもとへ戻り、
「死者を出したことがない家はありませんでした」
と報告しました。

すると釈尊は
「命あるものは死ぬ。この世は無常なのだ。あなたがその無常に気付くことこそ、死んだ息子を生かすことなのではないか」
と優しく諭しました

母親は、一軒一軒まわり歩くうちに、悲しい死を経験したのは自分だけではないと気付いていました。
そして釈尊の教えに感動して帰依しました。】



この話は子供の頃から知っていましたが、当時はちっとも感動しませんでした。

私が仏教を学ぶようになり、実際に人の悩みを聴いたり助言したりを経験するようになって、
いま初めてその凄さを感じています。

だって「死にたい」って言われて「生かしてみないか」って言えますか。

死んだら生き返らないという常識や固定観念が邪魔をして、そんな発想なかなか出ません。

しかも釈尊は誰よりも、無常を理解し尽くしている。
いわば最新科学の最先端。

それでいて、愛しい息子を失った母親の気持ちもしっかり汲まれて、むしろそれを巧みに活かしている。

この話は、母親が自分の足で一軒一軒訪ねるところが欠かせないと思うのです。

もし最初からこんこんと無常を説いても、母親は頭では理解しても、腑には落ちなかったはず。

悲しむ母親の気持ちを否定せず受けとめ、
方便を使って前を向くエネルギーを与え、
自分から気付けるように巧く仕向け、
タイミングを見計らって諭す。

なんという完璧な流れ。

こんなことを2500年前にすでにやっていたわけです。

お釈迦様って、超凄腕心理カウンセラーじゃないですか?

釈尊はご自分で、この世の法則と人間の心を完璧に見抜いていたんです。

自分が少しずつ理解するたびに、釈尊の凄さがどんどん浮き彫りになっていきます。

すごいなぁ。



先日から私は、法華経を「深く」学び始めましたが、

それまで自分で読んだときには全くわからなくて、
最初なんて、なんかひたすら色んな存在が釈尊を褒め称えている…なにこれ?と思いました。

おでこから光がビームみたいに出たり、話し始めるのかと思ったら瞑想に入ったり。
意味わからないし、ついていけない…
それが最初の感想でした。


でも、全然違いました。

あのお話には、あちこちに深い意味がちりばめられていたんですね、驚きました!


最初のシーンはプロローグ。
法華経の教えそのものはまだその先にありますが、その教えに入るための入り口です。


釈尊のまわりには、
菩薩たちから、修験者、ごく普通の一般ピーポー、悪人、動物、虫、果ては龍神や鬼まで、ありとあらゆる生物がいる。

まず大事なのが、そこで何をしているのか、よりも、
まず、なぜそんなに多種多様ありとあらゆる生物が登場しているのかということ。


それは、
仏の教えが、どんな存在に対しても平等であることを意味していたんです。


昔のインドっつったら、バリバリの身分差別のイメージですが、
そんな世の中で釈尊は「生きとし生けるものは全て平等だ」と言ったんです。

偉い、卑しい、美しい、醜い、善人、悪人、むしろ人間にすら限らない、
全てが平等であると言ったんです。


ということは他教も排斥しません。
これは特に素晴らしいと思う。

ついつい自分の宗教を重んじて「他の教えは良くない」となりがちなものもありますが、

仏教は、他を否定して我を押し通した時点で、それはもう仏教じゃありません。

仏さまは私たちに、徹底して寛容なんです。


そして、
仏の教えは、いつでも、どこでも、誰にでも当てはまる教えだと言っています。

私も、今は間違いなくそうだと思えます。


学べば学ぶほど仏教とは、信じれば救われるだとか、そんなものじゃなく、
むしろ逆、超科学的だと私は思いました。

重力があるからリンゴは上から下へ落ちるんだってくらい、理にかなっているんです。


宗教って、一般的にはどういうイメージなんでしょうか。
怖いとか怪しいとか、洗脳とか?
確かに本当に怖いことする団体ありますもんね…。

そして「死後の世界」みたいなイメージもあるのでしょうか。

私としては、めちゃめちゃもったいなくて残念です。

宗教は生きる教え。

仏教なんてまさに、家庭や職場や学校で、すぐに活かせる知恵の集まりの宝庫です。


怖い団体ばかりクローズアップされて、本物の教えをほとんどお坊さんしか知らないようでは、もったいなさすぎる。


だから私は、勉強します。

もうだいぶ「うわ〜本当だった!」ってやつありますが、まだまだ深く知りたい。

そして独り占めするのではなく、伝えていきたい。


実を言うと、いずれ出家して僧侶になりたい気持ちもなくはないのですが、

悩み苦しむ人がそれを吐き出せるカウンセラーのような、

罪悪感に苛まれる人が吐き出せる牧師さんのような、

まるごと受けとめて寄り添うお母さんのような、

そういう存在になりたいわけで、
それができれば僧侶でも主婦でも、なんでもいいやと思いました。



まだまだこれから。

たくさん学んで、まず私は、人の気持ちを「聞ききる」ことができるようになりたい。

決して否定しない、聞き役に徹する人に。

しかし意見を求められた時には、法則(真理)と相手の気持ち(心理)をちゃんと見極めて、ヒントをあげられるような人に。
 

 

ただ正しい、ただ優しい、ではなく、


「真心」のある人に。

 


 

 

 

年金問題や貧困問題の問題

  • 2017.04.27 Thursday
  • 16:54
私が思うに。

いやホント、私が個人的にただ、ただ思うに。


結局「行き過ぎたから戻れ」って意味だと思うんです。

もともと日本は、狩猟や木の実から糧を得て、そのうちにお米や野菜を作り、家畜を育て、3世代くらいで一緒に、素朴に質素に暮らしていたはず。

戦争を乗り越えて、ものすごい発展を遂げたことは本当に素晴らしい。

でも今は「行き過ぎてる」と思う。

もっと豊かに。
もっと便利に。
もっと早く。
もっと、
もっと。

なんて貪欲なんだろう。

むしろ原点回帰するべきじゃないのかな?

食べ過ぎて、太り過ぎた身体は、さまざまな病気を引き起こす。
今の日本の状態は、まさにそれじゃないのかなぁ?

年金問題も貧困問題も、豊かになり過ぎて太り過ぎた日本の、まさに生活習慣病では?

生活を見直して、ダイエットしたほうがいいと思うんです。

文明を否定する気は無いですが、
有りすぎは良くないと思う。
ほどほどがいいと思う。

その「ほどほど」を目指すために、ダイエットしたほうがいいよと気付くために、問題が顕在化していると解釈してます。

だから年金問題や貧困問題の本当の問題は、日本の太り過ぎだと思います。

もちろん、私が言うまでもないんですが…。



そして個人的に、
政治家や政策に文句ばかり言う人に物申したい。

さも政治家に養ってもらってるかのような錯覚を抱いていないでしょうか…。

税金払ってるんだから面倒見ろよ、ってのは違うと思います。

税金は国のために納めるもの。
日本で言う国とは、天皇や政治家ではなく、国民のことを差している。

つまり国民は自分を含む国民全員のために納税している。

それをまとめて取り仕切ってくれているのが政治家。
だから国民代表として政治家は選挙で選ばれる。

だからこそ、政治家の不正はあってはならない。
それはもちろん当然ですし、そもそも不正ができてしまうシステムもどうなのかと疑問です。

ただ、

国民代表として選ばれた人に、まるで全責任を押し付けるかのような発言は、ちょっと違うと思う。

あれが困るこれがひどいと他人(政治家)に文句を言うばかりで、
どうして自分を変えようとしない?

学級委員にあーだこーだ陰で言うだけで、自分自身はクラスや学校のために何をしてきたのか。
…いや、脱線しました。


「将来年金をもらえるかわからない。
もし毎月2〜3万円しかもらえなかったら、生きていけない」

という意見。
これよく考えてみると、
なんで年金で生きていく気満々なんですか?

歳を取ったら国に面倒見てもらうって、なんだか不自然じゃないですか?

じゃあどうするの、って、
考えれば色々あると思います。

例えば、年金は無いものだとして自分で老後資金を貯める。
といっても十分な額はほとんど不可能なので、これだけでは無理がある。

例えば、複数人で一緒に暮らす。
これは同時に独居老人の孤独死問題と、子供の虐待問題なども、ほとんどこれで解決できるのでは?
昭和の時代の家族形態に戻ればいいと思います。

例えば、いっそスローライフに生活を変える。
作物を育て、電気もガスもあるんだかないんだかってくらいの。
だって人間はもともと、そんなもの無く生きていた。

「病気になったときどうするの!?」
「学校はどうするの!?」
という意見。

じゃあなんで生きてるの?
なんのために学校行くの?

予防接種ひとつ受けられずに簡単な病気で死んでいく子供がいる中で、
「自分の病気を治す金をよこせ!」なんて自己中なことを私は言いたくないです。

食べるものもなくてガリガリに痩せて死んでいく子供がいる中で、
「うちの子供の学費がどうのこうの」なんて愚痴を私は言いたくないです。

なんのために生きてるの?

どうなりたくて生きてるの?

自分さえ良ければ幸せなの?

豊かに育つと考える力が育たないのか。
それとも固定観念だらけで視野が狭いのか。

自分の手に国の運命がかかってるとしたら、どうする?

自分の手に地球の命がかかってるとしたら、どうする?

国任せに暮らして国を責める前に、
地球任せに暮らして資源を食い尽くす前に、

自分が国のために動く、
自分が地球のために動く、
自分が人類みんなのために動く、
そういう広い視野と意識をひとりひとり全員が持てたら。

もしそうできたら。

もしそうなれたら。

どんなにいいか…。

夢物語なんでしょうか。
綺麗事なんでしょうか。

そんなことない。
人間は本当は凄い。
感謝や絆や愛をエネルギーにできる素晴らしい生き物。

今の私はそう思う。



ちなみに後半から、私が誰に向けて文句を言ったか。

過去の自分です…。



微力ながらまずもっと日本の農業や農家を応援したいと思う。

安い外国産をたくさん買うより、少々高くても国産を応援する。

そうする人が増えれば農業が盛んになり、農家が増え、農業に携わる人や仕事も増え、日本が活性化していかないだろうか。
日本は外国に追随するのでなく、日本らしさを取り戻す。
原点回帰だと思う。

今は国産は高いけど、食費が苦しいなら私は自分の食べる量を減らす。
私、本当はお坊さんのように朝粥や精進料理が憧れです。

誰より何より、食べ過ぎていたのは私だから…。

そう口内炎が教えてくれました。

口内炎は私の、大きくなり過ぎた胃袋を戻してくれる縁だった。



ちなみに地球にも口内炎があるのだとしたら、
それは地震だと思うんです。

あの大きな震災はたくさんの意味を抱えてた。
そのうちのひとつに、やはり原点回帰も含まれていると思う。
電気に困ったのが何より。

文明ばかり追いかけず、自然を崇め、自然とともに生きていた頃の人間に、そろそろ戻れという意味が、あったように思う。私は。